生き方、死に方
大切な人にお医者さまから死の宣告を下される気持ちは、味わったことがある。
その頃は、フォーエバー製品と出会っていなかったので、
文字通り、「奈落の底に突き落とされる」絶望感だった。
幸いにも、潜在意識の本「マーフィーの眠りながら成功する」を教えてもらい、
努力して自分の心を「愛と調和」にフォーカスした。
2年たって、フォーエバーを引き寄せることができ、結果、体質改善に成功。
今の元気な主人がある。
でも、弟さんが末期がんとわかったお仲間は、
でも、弟さんが末期がんとわかったお仲間は、
単なる気の持ちようではなく、「物理的な真実」だと、最新の科学ではわかってきている。
とすれば、初めから「絶望感」なんていう役に立たない感情を味わわずに、
「希望」を持つことができた、ということは、すごくラッキーなことだ。
●ところでこの頃、こういう相談を受けると、まず「死」とは何か、から話しあう。
●ところでこの頃、こういう相談を受けると、まず「死」とは何か、から話しあう。
そこを異常に恐がったり、触れないようにしたりでは、
すべての人が、死ぬことがないようにふるまい続けなくてはならないルールのもとに行動する。
末期がんで死ぬ直前であっても、あるいは寿命が明らかにつきかけている老人でも、
周りの人は、「死などあり得ない」みたいな演技を続けることが多いようだ。
でも、死なない人はいない。
でも、死なない人はいない。
100%かならずいつか死を迎える。
死は「失敗」でも「忌むべきこと」でもない。
誰もが通る「通過点」にすぎない。
必ず通る道なら、最高の死に方をしたい。
長く生きれば生きるほど「成功」ではなく、
たとえ平均よりは短めの生でも、いい死に方ができれば、
本人も周りも幸せなことだ。
だから、自分にとってのいい死に方とは何か、日頃から考えておく必要がある。
人生の最大の行事なのに、行き当たりばったり出たとこ勝負、というのは何ともまずい。
人任せはもっとまずい。
あいにく、今の病院では、「少しでも延命する」と言うことを判断の基準に行動する場合が多い。
あいにく、今の病院では、「少しでも延命する」と言うことを判断の基準に行動する場合が多い。
その延命処置のために、死んだ方がまし、と言う苦痛を本人が長く味わうことになろうともだ。
それは、お医者様を責められない。
それは、お医者様を責められない。
お医者様が
「この人はもう寿命だから、余計なことをしないで安らかにしなせてあげよう」
と判断して処置すれば、犯罪になってしまうかもしれない、今の日本の法律だから。
「余計なことをしなくていいです」と、はっきり本人か家族が、お医者様に断らなくてはいけない。
自分と、家族の死に方は、お医者様ではなく、自分たちで決めるものだ。
もうあと1ヶ月です、なんてお医者様に言われたら、お医者様がギブアップ宣言しているということ。
もうあと1ヶ月です、なんてお医者様に言われたら、お医者様がギブアップ宣言しているということ。
なのに、「何とかしてください」とお医者様にすがるのは酷だし、無駄だ。
何とかしたかったら、あとは自分たちで何とかすればいい。(つづく)